4月 2012
ピオリア(英: Peoria)は、アメリカ合衆国イリノイ州ピオリア郡でイリノイ川に沿う最大の都市であり、同郡の郡庁所在地である。ピオリアの名前はアメリカ・インディアンのピオリア族に因むものである。2000年国勢調査での人口は112,936人で、イリノイ州第5位だったが、2010年には115,007人となって、州内第7位になっていた[1]。ピオリア都市圏としては2008年の人口は372,487人となっており、シカゴ都市圏、セントルイス都市圏のメトロ・イースト部に続いて州内第3位だった[2]。
ピオリアはその人口動態や中西部文化の主流と認識されていることで、アメリカの平均的都市の代表として有名である。旅回りボードビル芸人の間では、ピオリアで成功したならば、どこでもうまく行くと言われてきた。「ピオリアでうまく行くかい?」という疑問文がアメリカ大衆の主流に訴えるものであるかどうかの隠喩になってきており、新しい商品、サービスおよび世論調査では市場調査の場所として使われることが多い。2008年以来の住宅市場危機において、全米のどの市場と比較してもピオリアの住宅ストックがほどほどだったので、なんとか危機を乗り切っている。
現在オバマ政権で運輸長官を務めているレイモンド・ラフッドがピオリアを本拠にしている。
ダウ・ジョーンズ工業株30種平均を構成する会社の1つであるキャタピラー社がピオリアに本社を置いている。
ワールプールジェットナイアガラの滝
ピオリアは、17世紀の探検者達がミシシッピ川からイリノイ川にまず分け入ってきたので、イリノイ州では最古クラスの開拓地である。ピオリア市となった土地に最初に入植されたのは、フランス人探検家ラ・サールとアンリ・デ・トンティがクレブキュール砦を建設した1680年のことだった。この砦は後に燃やされて灰燼に帰し、1813年にクラーク砦が建設された。1825年にピオリア郡が創設され、クラーク砦が正式にピオリアと命名された。
1835年3月11日に村として編入された。この自治体には村長がおらず、1835年から1836年までルドルファス・ラウズが村議長を務めていた。最初の警察署長はジョン・B・リシュクであり、1837年に指名された。市制は1845年4月21日に執行され、この時点で村議長の時代が終わり市長制に変わって、初代市長はウィリアム・ヘイルが務めた。
1854年10月16日、ピオリアでエイブラハム・リンカーンが初めて、アメリカ合衆国は奴隷制を制限し、最終的に排除する方向に動くべきであるという立場を公にした。これはカンザス・ネブラスカ法のような歴史的妥協に真っ向から反対するものだった。この演説は恐らく12日前のスプリングフィールドで行ったものと類似しており、その後にはスティーブン・ダグラスの演説があった。リンカーンとダグラスは1858年のリンカー・ダグラス討論で定期的に討論を行うことになった[3]。
マーブルフォールズリゾートアーカンソー州
[編集] 産業の歴史
ピオリアで初めての主要な産業と言えば、1830年にジョン・ハムリンがキカプー・クリーク沿いで小麦粉製粉所を建設したことだった。1837年、次の産業としてE・F・ノーランドが豚肉加工業を始めた。その後ピオリアではゆっくりと産業が成長し、荷馬車の工場、製陶業、卸売り倉庫、鋳物工場、ブドウ糖工場、製氷業および家具工場などが加わった。
アンドリュー・アイトル(1837年)やアルミロン・S・コール(1843年)のお陰で蒸留酒製造業では世界最初のリーダーになった。この頃ピオリアには22カ所の蒸留酒製造所と数多くの醸造所があった。これと共に、全米のどの単一地区よりも多いアルコールに課される内国税収入を生み出した。ピオリアは禁酒法時代には主要な密造地域にもなり、有名なギャングであるシェルトン兄弟の本拠地になった。この大きな成功で美しい私宅、学校、公園、教会、さらに市役所など建設ブームに沸いた。
蒸留酒製造業に加えて、1837年にウィリアム・ナースによる農業機械製造所が登場した。1843年頃にトビーとアンダーソンと呼ばれる2人の男が鉄製鋤を導入し、即座に成功を生んだ。ピオリアで支配的な製造業としてはキングマン鋤会社、アクメ・ハーベスター会社、セルビー、スター・アンド・カンパニーおよびアベリー製造会社があった。1889年、キーストーン・スティール・アンド・ワイアが最初の鉄線フェンスを開発し、それ以来国内でも指導的製造者になった。
ターナー滝公園キャビン
1880年代頃、ラウズ・ハザードのような企業が世界中で自転車とその付属品を扱い輸入する業者となった。自転車製造業者の1つであるチャールズ・デュリエーが1893年にアメリカ合衆国では初の商業生産可能なガソリン・エンジン駆動自動車を開発した。
この頃、農業機具の生産量が減退し、土木機械やトラクターの会社が急成長してピオリアはこの分野で世界のリーダーになった。1925年、キャタピラー・トラクター社がベンジャミン・ホルト社とC・L・ベスト・トラクター社を合わせて結成された。1935年にロバート・G・ルトゥルノーの土木機械会社が地均し機やブルドーザーの生産を始め、これが後にコマツ・ドレッサー、ホールパク事業部に発展した[4]。
[編集] ピオリアにある著名企業
- アメレンCILCO、元セントラル・イリノイ・ライト・カンパニー(CILCO)、現在はアメレンの一部
- アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド、トウモロコシ加工工場
- バーグナーズ、ピオリア中心街に1889年創業の百貨店、カーソン・パイリー・スコット& Co.を買収、現在はボントンの一部
- キャタピラー社世界本社、重機とエンジンの製造者
- シティズンズ・エクィティ・ファースト・クレジット・ユニオン、クレジット・ユニオン、キャタピラー社の従業員が開始、現在はイリノイ州中部14郡の住人にサービス
- クリフトン・ガンダーソンLLP全米本社、国内第13位の公認会計士事務所[5]
- 小松製作所、鉱業機械と建設機械の製造者
- マウイ・ジム 世界本社、サングラス製造者
- 農業利用研究国立センター、アメリカ合衆国農務省最大の研究施設、ペニシリンの大量生産方式が開発されたところである。
- RLI Corp.世界本社、特殊保険会社
ピオリアは北緯40度43分15秒 西経89度36分34秒 / 北緯40.72083度 西経89.60944度 / 40.72083; -89.60944 (40.720737, -89.609421)に位置する。
[編集] 地勢
アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、市域全面積は46.6平方マイル (120.8 km2)、このうち陸地は44.4平方マイル (115.0 km2)、水面は2.2平方マイル (5.8 km2)で水域率は4.78%である。
ピオリアは東をイリノイ川に接している。飛び地のピオリアハイツがあるが、これも川に接している。川向こうのイーストピオリアとの間には4つの橋が架けられている。ピオリアの西側境界南端にはバートンビルと新しく設立されたウェストピオリアがある。地元の計画ではピオリア市が拡張を続け、非公式にダンラップの一部と考えられている部分まで延びる予定である。
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